ラッキー著「ヨーヨーの歴史」(日本語訳)

著: Lucky Meisenheimer, M.D. 日本語訳: 石黒友也、三居弘典

Lucky’s History of Yo-Yo を翻訳したものです。

本当のヨーヨーの起源は、たぶん今後も明らかにはならないだろう。多くの国が、「ヨーヨーが生まれたのは自分の国だ」と主張するが、どの国に も 明らかな証拠はないのだ。何人かの歴史家は、複数箇所で発生したものだろうと言うが、現在もっとも有力な説は、紀元前1000年頃の中国で生まれた説だろ う。ヨーヨー自体の記録が中国にないとはいえ、ヨーヨーに大変よく似た遊び「ディアボロ」は中国の記録に残っているのだ。言語学の専門家は、「ヨーヨー」 という名前は東洋文化を語源にし、フィリピンで何百年もの間、この玩具を指して使用されてきたと言っている。

他の歴史家は、ヨーヨーがギリシャで生まれたと主張する。紀元前500年ほど前にはヨーヨーがギリシャにあったという証拠として、現在のヨー ヨー に似たものを持った人が描かれている円盤が存在している。考古学者たちは、これらは本物のヨーヨーであるか、糸巻きやそれに巻かれた糸を覆うかざりとして 使われたのではないかと議論している。実際、これらの円盤はセラミック製の割れ物であり、玩具として使用されたわけではないと考えられる。これらの円盤に 関するヨーヨーの説の発案者は、少年がヨーヨーのようなもので遊んでいる図柄の描かれたギリシャの円盤を根拠としている。

どちらにしろ、ヨーヨーは何世紀もの間を生き残ってきた、伝統的な玩具として信じられている。しかし、しばしば言われる「ヨーヨーは世界で2番 目 に古い玩具である」という説についても、証拠はないのだ。この説は、それが事実として受け入れられてから繰り返されてきたが、この主張を証明する証拠はな いのである。

もう一つの有名な誤説として、ヨーヨーは数世紀前のフィリピンの武器であったという説だ。この説は、木の上の狩人が、重く巨大なヨーヨーを持 ち、 獲物がその下を通るのを待つというものだ。獲物が通ったその瞬間、ヨーヨーを獲物の頭めがけて投げつけるのだ。うまくいけば、獲物はほぼ気絶してしまい、 少しはずれたとしても、まだ、狩人には、2回目のチャンスがあっただろう。しかし、物理学的にみた場合、この説はありえないのである。数世紀にわたって人 気のある玩具としてフィリピンに存在していたことは確かだが、それが狩猟用の武器として使用されたという記録はどこに無いのである。この説は、1930年 代に、その多くがフィリピン出身であったダンカンヨーヨーのデモンストレーターたちによって広められた。この話はヨーヨーを販売する上で役に立ったが、長 い間繰り返されてきたことにより都市伝説化してしまったのだ。

 

宣教師達によって極東から18世紀後半にヨーロッパへ紹介されたものだと、歴史学者たちが信じるほどヨーヨー人気の波には当時すさまじかった。 最 近発見された1630~1650年ごろのものと思われる、少年がヨーヨーで遊んでいる図柄の描かれたオランダのタイルは、フランスの参照資料より150年 ほど前のものと思われる。このタイルは、1765年初期のインドの関連資料のChucki(発音は、Choo key)として知られている玩具にもまた先行している。1世紀半も前にヨーロッパにおいてこの玩具が登場していたということは、「ヨーヨーは時を越えてい たるところにある玩具であったが、ただ書類が残っていなかったというだけなのか?」という疑問を浮かび上がらせる。子供の遊びは、中世の作家や芸術家たち が題材として選ぶものではなかったというのが、もっとも説得力のある話ではないだろうか。

 

18世紀後半の間に、ヨーヨーはフランスの貴族たちの間で大人気を博した。この玩具は、この世紀にはヨーヨーとは呼ばれなかった。最も一般的な 名 前は、「bandalore」であった。「bandalore」は、フランス語に語源を持つ。英語でも、「bandalore」は「Quiz」という言葉 と同様にこの玩具の名前に使われた。他のフランス語で使われる言葉として、l’emigrette(出国)、de Coblenz (多くのフランス貴族の難民を抱えた町)そしてincroyable (フ ランスの伊達男)などがある。こ れら全ての用語は、フランスの革命に対し、歴史的に重要なかかわりを持っている。貴族の首がはねられ始め、ギロチンの時代とも呼ばれたこの世紀に、ヨー ヨーは、フランス貴族のとてもおしゃれな玩具になり、多くの貴族たちはヨーヨーとともに他国へ亡命した。ヨーヨーと亡命した貴族という関係は、結果として これらのフランスでの多彩なヨーヨーの名前をもたらした。ヨーヨーが革命における混乱のためにフランスからイギリスへ入ってきたのかどうかは定かではない が、Quizzesと呼ばれたヨーヨーは1789年にイギリスで開かれたPechamフェアにおいて販売されたと記述されている。

貴族階級のものたちの間でヨーヨーは人気があり、この世紀の文献にたびたび登場する。これらの文献のほとんどが、子供ではなく大人たち遊んでい る ものであるというのだから興味深い話だ。子供たちも楽しんでいたのだろうが、それは当たり前なので記述されることでもなかったというのが唯一想定されるこ とだろう。一つの有名な例外は、Viznee LeBrun夫人によって描かれた、当時4歳であったルイ17世の肖像画であった。これは、18世紀の子供がヨーヨーとともに描かれているイラストとして 最も有名である。Lafayette長官がヨーヨーをプレイしている軍隊を率いている様子やMirabeauと軍隊とヨーヨーなどのような風刺画が描かれ たのもこの世紀である。もう一つのこっけいな文献として、1793年のイギリスの「Baron Munchausenの旅と驚愕の冒険」においては、ヨーヨーはquissesと名づけられ、それらを使用している様子は「quizzing」と呼ばれ た。“自身の舌以外にも、夫人たちは、彼女らの考えを伝達するほかの道具を持っていた。それぞれが、3つのquizzesを持っていて、ひとつ は 彼女の口を縫うためのストリングから成るペンダント、のこりは両手に持っていた。彼女が否定的なことを表現しようと思ったとき、彼女は左右の手に持った quizzesを投げ放ち、彼女が肯定的なことを表現しようと思ったとき、うなずきながらquizペンダントを下ろし巻き上げた。”

この玩具が始めて北アメリカへ紹介されたのがいつかはわからない。合衆国における初めての文献は、1866年にJames L. HavenとCharles Hettrickによって取得された、新しく便利なbandaloreとしての特許である。それは、ヨーヨーの構造において、中心の軸を入れることによっ て2つの半面同士を固定し、それによって、金属を使わずに作ることを可能にした。これ以前にもアメリカにおいてこの玩具が知られていたことは確かだが、知 名度についてはよくわかっていない。

その後50年以上の間、多くのほかの特許がヨーヨーの多様化とともに提出された。ヨーヨーという単語は、1916年にアメリカの科学誌において 「フィリピンの玩具」として紹介された。その記事では、ヨーヨーの作り方が示され、この名前でこの玩具が呼ばれていた。

1928年に、フィリピンからの移民であったPedro Floresが「ヨーヨー」という玩具の生産をアメリカで始め、ここから近代ヨーヨーの歴史が始まった。Floresはこの玩具にとって重要な3つの事を 行った。ひとつは、彼自身がヨーヨーという用語を作ったわけではないのだが、彼の母国であるフィリピンでのこの玩具の呼称であったために、彼がこの玩具を 「ヨーヨー」と名づけたということだ。これにより、この呼称がアメリカの文化や、出版物等におけるこの玩具の説明としてとても有名になった。第2に、 Flores yo-yo はストリングを軸に結んだり、固定したりするのではなく、輪の形にして軸の周りに巻きつけた。これにより、ヨーヨーはストリングの先端で回転することが可 能となり、ヨーヨープレイの新たなる舞台が開かれた。最後に最も重要なことは、のあとに続く爆発的流行に必要不可欠であったヨーヨーコンテストを導入した ことだった。

ヨーヨーは数世紀の間存在し続けてきたが、20世紀においてヨーヨーを最も人気のある玩具のひとつにまで押し上げたのは、コンテストの熱狂で あっ た。 1929年、この玩具の需要はすさまじいものがあった。あの「ポピュラーメカニックス」誌がフィリピンヨーヨーの作り方を公表したほどである。 Floresは”yo-yo”という名前を商標登録したが、よくいわれるように彼がヨーヨーを開発したわけでも、彼がヨーヨーの特許ももっていたわけでも ない。

実際、Floresは彼の商標登録と会社をDonald F. Duncanの会社へ売り払うまでの、ごく短期間の間しかヨーヨーを製造していない。当時DuncanはFloresの商売敵であったが、ヨーヨーについ ての商標登録の権利を持っていなかった。Don Duncanはマーケティングの天才であり、Floresから商標登録の権利を手に入れると、The Duncan Yo-Yo Companyを以降35年間、アメリカのヨーヨーマーケット全体のうち85%を占めるヨーヨー製造会社として君臨させ続けた。当時、毎年のDuncan yo-yo manの登場や彼のコンテストはアメリカの若い世代にとってもっとも重要なもののひとつになっていた。

ダンカンの初期のヨーヨープロモーションにおける成功は、彼が無料広告に精通していたことによるものが大きかった。彼はコンテストのキャンペーン を地方新聞の購読促進と結びつけるという手法を使った。スポンサーをしている新聞は、参加者へコンテストへの参加ために自社新聞を購読することを要求する ことにより利益を得た。そのかわり、新聞社は無料広告、賞品を提供した。この手法は大成功を収め、20世紀前半の大手新聞William Randolph Hearstとも提携し、ヨーヨーコンテストは発行部数促進にも一役買った。1930年代にDuncanが行ったいくつか大きなキャンペーンは、 Hearst系新聞を持っている町と提携し行われた。

また、Duncanは、著名人の露出とからめていくという手法も取り入れていった。Douglas FairbanksやMary Pickford、そして野球の殿堂入りをしているLou GehrigとHack Wilsonなどの著名人たちが手にヨーヨーを持った写真が撮られた。「Our gang」のような有名な映画のスターを使ったプロモーションは、“Gold Seal” や “O-boy”のヨーヨーのプロモーションとして使用された。もし有名人の人気がない町があったとしたら、そこでは一般的な画として公務員が良しとされ た。市長、警察署長、町医者など、すべてはローカルのヨーヨーキャンペーンを促進するために採用された。

ダンカンは、ヨーヨーをアメリカだけでなく、世界中で販売した。ダンカンは、金のシールの張られたトーナメントモデルや“o-boy”と呼ばれる 初心者向けのモデルなどで非常によく知られていたが、数十年以上の間に、多くの限定ヨーヨーもつくられた。The 30sは、金属製の音の鳴るヨーヨーとして最もよく知られていた。ダンカンは1950年に、初のプラスティック製ヨーヨーであり初のライトアップヨーヨー でもあるモデルを発表した。1958年には、「Butterfly」が発売され、またこのデザインは50年以上前に始めて特許を取得していて、 「Butterfly」という名前のヨーヨーの発売はこの形状を指す言葉ともなった。50年代中盤から60年代初め、Litening、 Rainbow、 Chief、 Suede、 Day-Glo、 Satellite、 Champion、 Luck-E-JADO、そして Super Practiceと言った、コレクターたちから本当に切望されている、コレクション製の高いヨーヨーが生産された。ダンカンにとって最も大きな時代であっ た。60年代前半、ダンカンは27人の専属プロデモンストレーターを雇っていた。生産の最盛期には、ダンカンの工場は640名の作業員を雇い、一日に 60,000個のヨーヨーを生産し、1962年には、1年間で4500万個のヨーヨーを販売した。

ダンカンは、彼らの効果的なマーケティングによって破滅したとも言える。彼らの40年以上にわたるこの玩具のプロモーションにおける成功は、 「yo-yo」という単語を一般的にした。ダンカンの「Yo-Yo」という名前を使う独占権に対する挑戦は、ロイヤルヨーヨーという会社のJoe Radovanによって行われた。Joe Radovanはダンカンの初期のフィリピン出身のデモンストレーターの一人だった。1937年に彼はダンカンを去り、自身のヨーヨー会社を立ち上げた。 長い法廷での戦いの後、1965年に、ダンカンはヨーヨーの商標を法的に剥奪され、「yo-yo」という単語がこの玩具に対する一般的な呼称であると決定 された。「yo-yo」という単語はアメリカの中での商標ではないが、カナダのようなほかの国では、引き続き商標として「yo-yo」という単語は守られ 続けている。

 

「Yo-Yo」という商標を失ったことは、ダンカンのバックボーンを破壊し、1965年後半にはアメリカで最も有名なヨーヨーメーカーは破産、 そ の歴史の幕を閉じた。ダンカンのデモンストレーターたちによるサポートが無くなり、60年代半ばから80年代半ばにかけては、ほとんどヨーヨーコンテスト は行われなかった。ヨーヨーは、以前のような文化的象徴としての栄光を失い始めていた。ダンカンの商標は後にFlambeau社に買われ、プラスティック ダンカンヨ―ヨーは1969年に再び生産され始めたが、アメリカにおけるヨーヨーデモンストレーターの時代は既に過ぎ去っていた。

一部の国においては、ヨーヨーはまだ一種のステータスであるようなブームを保っていた。国際的には、ヨーヨーはコカ・コーラ/ラッセルのプロ モー ションにより、数百万個という単位で販売され続けた。北アメリカを除き、1950年代後半からは、ジャックラッセルがヨーヨーという単語をコカ・コーラと ほぼ同意語であるかのように結びつけた。もう一度言うが、ヨーヨーの販売における成功にためのカギは、コンテストと、ラッセル社がコカ・コーラ/ラッセル のヨーヨーを世界中で馴染み深いヨーヨーのブランドとして定着させたことであった。

60年代後半から70年代にかけて、ヨーヨーは引き続き毎年数百万個販売されてきたが、以前に持っていた文化的な象徴として持っていた人気や存在 感はなくなってきていた。ヨーヨーはこの時期、時折全国規模で登場し、その有名な例は政界がらみのものであった。

1968年初頭、反戦活動家のAbbie Hoffman氏は裁判が始まる前の宣誓を行っている間、ヨーヨーを取り出しウォーク・ザ・ドッグを行っていた。彼は法廷侮辱罪の罪に問われ、これはヨー ヨーのプレイに起因する最も厳しい懲罰であるといわれている。1974年後半、「ウォーターゲート事件」の最重要人物であったリチャード・ニクソン大統領 は、テネシー州のナッシュビルのグランド・オール・オプリーという場所に住んでいる、Roy Acuffという人のところへ訪れた。Roy Acuffは、「Opry」においては、50年以上もパフォーマンスをし続けた伝説的人物で、彼を象徴する動きとしてヨーヨートリックを行うことがあっ た。ニクソン大統領が、Acuffとともにステージの上でヨーヨーを投げている様子を写真に撮られ、それは主要なメディアによって公開された。政治風刺マ ンガの作者たちは、このイベントにこぞって参加した。ニクソン大統領はそのヨーヨーにサインをし、Acuffにプレゼントした。数年後、そのヨーヨーは Acuffの資産のオークションにおいて16,029ドルで売却され、これはヨーヨーに対して支払われた金額としては過去最高の世界記録を打ち立てること となった。

数世紀にわたり、ヨーヨーは依然として形状や機能面では似たようなもののままであった。70年代後半から80年代前半にかけて、多くの技術的な 変 化がヨーヨーに現れ始めた。トム・クーンが、世界初の分解式ヨーヨーである「No Jive 3 in 1」を発明したのだ。クーン氏の新発明の輝かしいプロモーションの中で、詳細部までNo Jiveと同じように作られた世界最大のヨーヨーもこの時期に製造された。重量256ポンド、直径50インチのこの木製ヨーヨーを操るには、クレーンと 3/4インチのダクロンロープを使用しなければならなかった。このヨーヨーは、1981年に世界記録としてギネスブックに掲載された。他の会社もまた新し いデザインのヨーヨーを次々と開発していった。例えばプレイマックス社は、空転時間をより長くするために軸を真鍮製にし、さらに外周部に重心のよったリム ウェイトのデザインを取り入れたヨーヨーを開発した。1980年には、Mike Cafferyがヨーヨーのオートリターンを可能とするクラッチメカニズムを内蔵したヨーヨーの特許を取得し、1984年には“Yomega the yo-yo with a brain”として発売された。同じ年に、スウェーデンの小さな宣伝告知は、Floresがわっか状のストリングを導入して以来、最も大きなヨーヨーの変 革を紹介していた。Svenska Kullagerfabrikenによって作られた初のボールベアリングヨーヨーは、それ以降のヨーヨーのプレイの方法を変化させた。面白い話ではある が、この発明の衝撃が完全に理解されるのは、おそらく10年以上先のこととなるだろう。

1985年4月12日、スペースシャトルのディスカバリー号において、黄色のプラスティックでできたダンカンのインペリアルは宇宙へ旅立った初の ヨーヨーとなった。このヨーヨーは、スペースシャトルディスカバリーのミッション51-Dである「宇宙の中での玩具」という、他の9つの玩具とともに参加 した実験シリーズの一部であった。宇宙飛行士のDavid Griggsは宇宙でヨーヨーをプレイした初めての人となれたことを名誉に思ったという。ヨーヨーは、1992年7月31日のシャトルアトランティス号の ミッションSTS-46にも再度参加した。宇宙飛行士Jeffery Hoffmanは「ハイテク」ヨーヨーであるSB-2 (Silver Bullet-2)を使用し、無重力状態がヨーヨーのプレイにどのような影響を及ぼすかを実験した。

ヨーヨーの人気は、1986年にコメディアンであるトミー・スマザーズが彼らのデビュー作としてJohnny Carson showで行った「ヨーヨーマン」のおかげで、大きな加速を得た。その人気ぶりは1988年に発売されたスマザーズ・ブラザーズのヨーヨーマンの教育ビデ オが200,000本以上も売られたことによって物語られている。最終的には、ヨーヨーマンは1988年から89年にかけて放送されたスマザーズ・ブラ ザーズの番組にて演じられ、またこのショーの中ではDan Volk、Dale Myerberg、Barney AkersそしてBob Ruleといった伝説的なデモンストレーターたちも出演した。

1988年には、ヨーヨー・タイムズという新聞がStuart Crumpによって初めて発行された。Yo-Yo timesはヨーヨーコミュニティを活性化し、ヨーヨーファンたちの間での主要な情報源となった。ヨーヨー・タイムズは定期的な刊行物として最長のものと なり、間違いなく1990年代の間のヨーヨー人気の波を押し上げる上で影響を与えた。

1990年代には、以前見たことも無かったようなヨーヨーの爆発的な人気が再来した。ダンカンファミリーコレクションを呼び物とした “Return of the Yo-Yo”ショーが、1990年から91年の間、全米中のTaubmanモールを巡り、ヨーヨーコンテストを再来させた。ヨーヨーのプレイにおける刺激 だけではなく、ヨーヨーのコレクションもプレイヤーたちの間で流行りだした。

最も大きい技術的な進歩は、トランスアクセルの開発であった。トランスアクセルは、以前は不可能と考えていたほどのレベルへの扉を開けてしまう く らい、長い空転時間を実現した。アメリカヨーヨー協会によると、固定軸のヨーヨーでのスリープ時間の世界記録は、1991年にデール・オリバー氏の打ち立 てた51秒、現在のAYYAによるトランスアクセルでのスリープの記録は2001年4月22日にリック・ワイヤット氏が打ち立てた13分5秒と、衝撃的な までに異なっている。

デール・オリバー氏の多大なる努力により行われた昨今のワールドヨーヨーコンテストの第1回目は、彼の主導により1992年に行われ、これは 1993年に誕生したAmerican Yo-Yo Associationを構成することにつながった。第1回目の昨今のNational Yo-Yo Contest は、後にチコのナショナルヨーヨーミュージアムの責任者となったボブ・マラオニー氏の手によって、1993年にカリフォルニア州チコ市で行われた。ヨー ヨーの大会は、1996年に初めて全米大会で行われたフリースタイル部門にてアレックス・ガルシアが優勝したことをきっかけに、劇的な変化を迎えた。フ リースタイル大会は、今日では全国、あるいは世界規模でのイベントには必要不可欠な要素となっている。ヨーヨープレイは進化し続け、「オフストリング」と 呼ばれる、ヨーヨーがストリングにつながっておらず、むしろディアボロのように扱われるトリックが開発された。最近の発案としては、スティーブ・ブラウン 氏によって開発された「フリーハンド」が挙げられる。ヨーヨーはもはや指にはつながっておらず、カウンターウェイトを手に持ち、ヨーヨーを手から放ち自由 にさせるようになっている。

ヨーヨーは、間違いなく長い時を経て生き残ってきた玩具のひとつであり、またこれからも数世紀にわたってプレイされ続けていく玩具であろう。イギ リスの玩具小売協会はヨーヨーを20世紀の中において「今世紀の熱狂」と位置づけた。